『幼き日のこと』を30年かけて読破した件

『幼き日のこと』といっても自分の身の上話ではなく、井上靖の随筆のことである。

氏の幼少期を綴った作品であり、昭和初期の伊豆で生きた少年の生活が、郷愁あふれる筆致で描かれている。小説『しろばんば』は井上靖の少年時代がモデルになっているが、『幼き日のこと』ではそのベースとなった体験を脚色することなくありのままに回想している。

本作と初めて出会ったのは、小学校5年生か6年生の国語の教科書だった。台風を迎える晩、諸事情で二人暮らしをしていた祖母とその備えをしたというエピソードが抜き出されていたと思う。台風を前に木に紐を括り付けたりしてせわしなく準備する村の人の様子が、なんだか祭りの前の浮かれた街に似ているような気がした。夜になると風がびゅんびゅん吹き荒れ、未就学児だった主人公は物音がするたびに飛び起きてしまう。それを祖母は「大丈夫だよ」と優しくいさめる。何気ない会話の中に、“掛け替えのない人”の強さや温かさが醸し出されていた。

小学生の自分が何を感じたのかは正確には覚えていないのだが、そんなようなことを感じて強く印象に残ったのだと思う。で、一部だけではなく全部を読んでみたいと、文庫本(新潮文庫)を購入した。

それまではズッコケ三人組シリーズなどの児童書しか読まなかった。初めての大人の本デビューが『幼き日のこと』だったのである。この読書体験をきっかけに、文学青年への道を進むこととなり、中高と小説を乱読し……と、うまい具合にはいけばよかったんだけどね(笑)

さして難しいことが書いてあるわけでもないが、小学生の自分には読む基礎能力が足りず、井上靖の文章を読み切ることができなかった。わからない漢字や表現が出てくるたびに前に進むことができず、30Pか40Pで挫折して放置していた。

昭和初期の時代背景や文化的なシチュエーションは、歴史の勉強を進めていなかった小学生ではなかなか理解しづらかった側面があったかもしれない。けれども、日本史を勉強し出した中学、高校生になってから再度挑戦しても、最後まで読めずじまい。大学生となり東京に出てきてからも、社会人になってからも同様。何度チャレンジしてもやっぱり30Pかそこらで挫折してしまう。30Pは俺にとってのK点なのかもしれない。最近では4年前に2か月くらい持ち歩いていたが、やはり途中で読まなくなる。

世の中には合う本、合わない本があるようなので、俺にとっては合わない類のものだったのかもしれない。が、となると教科書で読んだ時に感銘を受けた気持ちの辻褄が合わない。おそらく、わりと文字組が小さい文庫本なので、ぎっしりと文字が詰まった感じが詠む気を失せさせたのだろう。小学生時代の挫折体験がトラウマとなり、「俺には読めない本なんだ」という先入観が心に刻まれていた可能性もある。お恥ずかしい限りだが、何とも怠惰な理由だ。

とにかく、『幼き日のこと』は、もうず~~~~~っと放置していた本なのである。

ところが、9月8日にようやく読了することができた。小6の頃から数えて、実に30年ぶりの快挙である! もはや30年間、読み続けた愛読書だと言っても大げさではなかろう。30年間、毎日持ち歩いていたわけでもないし、30年間、夢中になって読んだのでもないが、この際そう言うことにしておく。

で、これがその一冊です。

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経年劣化でもう中身はボロボロ。何度も繰り返し読んだオーラが出ているものの、実は1回しか読み切っていないのが悲しいところ。表紙はずっとカバーをかけていたので、比較的きれい。

実は読み切るのに2か月くらいかかっており、途中で何度も挫折しそうになる。しかし、最初に一気に50~60P位を読み進めることで、30PというK点を超えたのが大きい。以後,ダラダラとしながらも、せっかく乗った流れを大事に大事にしながら、細々と読み進めてきた。

 

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本のカバーは地元の本屋のもの。もともとは生まれ育った会津若松市のかつてのメインストリート神明通りにあった荒井書店で購入した。確か取り寄せてもらったんじゃないかなぁ。今はもう店はなく、神明通りの神輿置場になっている…

この店では中学の時にAKIRAの4巻か5巻も注文したのだが、弱小書店なのでなかなか配本されなかった。ジャンプを買うついでに「何度もまだ来てませんか?」と尋ねたのだが、しまいにはお兄さんが「他で買ってもいいよ…」と言ってくれた。すぐ近所にあったチェーン系本屋(ここも閉店しているが)では売っていたのは知ってた。けれども、『幼き日のこと』をはじめ数々の本を荒井書店で購入していたから、義理を感じて浮気はしなかった。

にもかかわらず、あのとき他で買うのを薦められて、ホッとした自分がいたのをよく覚えている。別の店でAKIRAを買った後、夢中になって読み込んだ。一方で得体のしれない罪悪感を感じて荒井書店に近づくのをためらうようにもなったのも事実である。あれがきっかけとなり、ホームグラウンドが別の書店になったんじゃなかったっけなぁ。

話が逸れた。カバーがびりびりに破けているのはこの2か月余り持ち歩いたからで、それまでは綺麗に取っていた。通常、本を読み終わったらカバーは捨てることにしているのだが、この本だけは取っておこう。井上靖の『幼き日のこと』には、荒井書店の思い出も詰まっているんだから。

この本にはほかに『青春放浪』『私の自己形成し』という井上靖の中学生後の思い出を振り返った随筆も収録されている。せっかくなのでこの2作も読んでいったが、20何歳まで学生だっただの、就職しないうちに結婚しただの、それなのに新聞社に就職しただの、ちょっと体育館の裏に呼び出したくなる彼の人生であった。

その中に印象に残ったエピソードがある。井上の人生で影響を受けた出来事等を記していく『私の自己形成史』の最後に、彼は法隆寺の金堂や壁画と言った造形にかなり影響を受けたと記している。実は俺の人生でターニングポイントとなった人が、法隆寺に縁がある。詳細は省くが、冷酷だった俺に人との向き合い方を教え、自分の心の片隅に棘のように刺さっていたものを抜いてくれた恩人とだけ言っておこう。

30年前に買ったこの本もまた、自分の心に一つの棘を突き刺してきた。それが抜けると思った最後のページに、別の棘を抜いた人の面影があったことに、ちょっとした驚きというか、はっとさせられるものを得た。その人が法隆寺に縁があることを知ったのは去年の秋。だから、少なくとも4年前に手に取ったときに読破していたら、このようにおセンチな感想は言わなかっただろう。「ああ、今、読み終えることになってた本なんだな」と、読了できなかった過去の怠惰をよいように捉えることにする。

心の棘なんてほかにも数えきれないほど刺さっているし、単なる偶然なのだろうが、この本を読み終えたこと自体が俺のターニングポイントではあると、自分で勝手に考えるのは自由だ。『幼き日のこと』が、これからの俺のアティチュード(何故かWWE風)になるのかもしれない。

と、夢落ちみたいなシメで恐縮しますです。